パソコンの進化(むかしの話:つまんないよ)

私も、いい年になってしまいました。
たまたまパソコンの黎明期から成熟期まで、私が青春を送った時期と重なるので、いろいろと知っていることを備忘録風に書いてみたいと思います。

A:それまで・・・
大型のコンピューターはIBM、バロースなどがありましたが、いわゆる大企業が自社にコンピューター室を作り、いろいろな業務をシェアしながら
使っていました。
中小企業では金額面からも導入できず、それよりセールスマンが高飛車で「お宅の会社の規模では無理です」と言うほどでしたから。
 このマシンはIBM360シリーズの、初期型機です。
女性が座っているのはコンソールの付いた中央演算処理装置で左手にテレタイプ、奥にインパクトタイプのラインプリンタ、
立っている女性の所にあるのはプログラムやデーターを入力するための80欄カードの読み取り装置ですね。
私がこのマシンを初めて見たとき、コンソールパネルの右上にある「EMERGENCY PULL」と書かれた赤い丸のボタンが不思議でした。
引くとどうなるのでしょう? どなたか引いた方いますか???

確かにプログラムを自社開発しなくてはならず、プログラマ・キーパンチャなど雇うだけでも大変です。
なので、中小規模の会社では、機械式の計算機や会計機が多く使われていました。
機械式計算機はすごかったです。 歯車で計算するわけですが、縦計横計が取れるようにメモリーが付いていたり、中にはべき乗計算まで
出来るものもありました。 そう、歯車メインで!
すごいと言えば、機械式(電動)ですからガチャコンガチャコンという音も・・・
電話局の料金計算なんか数十台以上の機械が一斉にガチャコンガチャコンとやるわけですから、すごい音!
電話局では、1通話単位の計算を1番号ごとにやっていましたので、オペレータの方はキーの打ちすぎから腱鞘炎になる方もいたとか。
月に7円の通話が100回あると、7X100はダメで、7を100回入力し印字データーを通話記録表に張り付けていました。
機械式計算機の動作を動画で見てください、動作を見ていると頭が狂いそう・・・


掛け算はまだしも割り算もできたのです。
掛け算⇒7X9だと7を9回足せばいいけど、それだと9回転必要・・・なので、手動機械式計算機(タイガー計算機)だと最初に7を1桁上げ70にし、
次の1回転を逆回転とし7を1回引けば1回転で済むと頭の中ではわかっていても、頭の中の想像力がついていけない。
手回し計算機は”頭”も必要なんです、なので・・苦手。 ラリー車のナビは激しく揺れる中で良くできますね・
 手動式計算機

まだオフィスコンピューターなる言葉も無く、この電動機械式計算機の動作を機械式プログラミング装置で制御し印字していましたね。
この機械式計算機を幅広の帳票に印字できるようにしたものを会計機と呼び、金融機関でも通帳印字に使っていました。

1964年シャープ社から”電卓”「CS-10」が発表されました。 電卓と言っても機械式計算機より一回り以上大きかったです。
私も高校入りたてでしたが、とにかく見たくて新宿の京王百貨店の特設会場に行きました。
もちろん係員の目を盗んでアレコレ触りまくりでしたが、最後は怒られて退場させられました。

1967年日本オリベッティ社から、大型コンピュータと機械式電動計算機のギャップを埋める卓上コンピュータ「Programma 101(P101)」が
発売されました。
論理判断機能を持ち、外部記憶装置(入出力装置)として磁気カードを採用し、従来は大きなコンピュータしかできなかったプログラムや
データの外部記憶を可能にした画期的な製品でした。 ⇒明確にノイマン式コンピューターです。
現在のパソコンから見れば全く非力なものでしたが(今の電卓レベル)プログラムが組め論理演算が出来るため、机の上に載る
デスクトップコンピュータとして、NASAのアポロ11号月面着陸計画にも使用されたりしていたようです。
私も大学で、このP101をまるで自分専用のコンピューターとしてプログラムを作っていたものです。(別の言い方だと遊んでいた?かな)
ちなみに全てのメモリーは遅延線メモリーで構成され、おおむね全体で2000Bit(250Byte)だったと思います。(信じられないでしょ)
それでもそのマシンによって私の進む道は、そちら方面に決まって行きました。

ところで、いまから書いていきますがインテル社がマイクロチップCPUの製造を始めたのは1964年からで、さらに電卓を乗り越え
パソコンの黎明期がやってくるのは1970年後半から1980年にかけての頃でした。
オリベッティ社の「Programma 101(P101)」はそんな黎明期がやって来る10年以上も前から「パーソナルコンピューター」と呼ばれ
ていたのです。  かれこれ、45年以上も前から「パソコン」の言葉も機械もあったのですね。
1965年アメリカで発売されて以来、このマシンが世界で初めての「パーソナルコンピューター」の称号を得ていますね。

B:電卓戦争
電卓とパソコンは違うものではありません。 (これ以降は一般名詞としてのパソコンの言葉を使います)
電卓はいわゆる四則演算に特化していて、入力装置(キーボード)と出力装置(表示器)が一体になったものです。
パソコンは、プログラム次第で何でも出来るという違いがあります。 入出力装置もいろいろ選べます。
でも電卓もパソコンも主たるアーキテクチャは同じです、入力装置⇒CPU(メモリ)⇒出力装置です。
100円ショップで売っている電卓も、華やかなMacBookも同じ根っこを持っているのです。(最近のMacって裏のリンゴが光らないのね・残念)
その根っことは・・・

まず、日本の神様の名前が出て来ます「嶋正利」氏です。
アメリカの新興ICメーカー・インテル社を巻き込み、マイコンの心臓部となる論理設計を行い、どんな要求にも使える汎用ICチップが生まれます。
 1974年に製造開始されたLSI”i4004″チップ
インテル社にこのチップの製造を命じた日本の会社は、あくまで電卓で使う事を考えていたようですが、インテル社はこのチップに大きな可能性を
感じたようで、全ての権利を買い上げたそうです。 その後の経緯を見るとインテル社の大勝利!!!
ちなみに日本の電卓業界は数年前の「カシオミニ」の発売を機に、大混乱状態でありました。
インテル社にLSIチップの製造を命じた会社も、電卓大戦争に巻き込まれあえなく倒産!
LSIチップのほとんどの論理設計を担った”嶋”氏は、インテル社が知的財産の他社への流出を恐れインテル社が囲い込んだ(就職させた)そうです。

インテル社では4004⇒4040⇒8008⇒8080⇒8085と4ビット(簡単な制御用)から8ビット(複雑な制御用)と進んでいます。
別の話になりますが、この後に出てきた8086~80286シリーズは16ビット。
このへんからややこしくなりまして、80386~Pentium初期型、Celeron初期型など32ビットです。 Windowsを選択する時X86シリーズが対象。
Pentium後期型、Celeron後期型やCorei3、Corei5、Corei7などは64ビットアーキテクチャーです。 Windowsを選択する時X64シリーズが対象。
ごく単純化した話で言うなら、多ビット化=高機能・高性能。

C:マイコン
8080チップが出たころからアメリカでは個人でパソコンを組み立てる人が出始め、パソコンキット「Altair 8800」は1974年に発売されます。
翌年「IMSAI 8080」が発売され、日本でも一気にパソコンブームが盛り上がります。
私も学校の(学生運動の)帰りにお店を覗き、買えないし・・・当時の雑誌「BYTE(英語版)」や「INTERFACE]誌を読み漁りました。
  
左写真「Altair 8800」 右写真は「IMSAI 8080」
前面にスイッチやランプがついてメカメカしいですが、これはあくまでプログラムの一部修正など用で、普通これでプログラムの入力はしません。
出来ないことはありませんが・すごい手間です。 一晩かけて入力したことありますが、深夜帯に入力したものはミスが多かった。
アドレスとコマンドをスイッチを上げて入力⇒ストアだかロードだったかを上げて入力⇒アドレススイッチなどを指裏でグリサンド奏法のように
一気に下に倒し次の入力値をいれる・・・の繰り返し、嫌になる・・・たぶん世界中の人が同じ思いを持っていたのでしょう。
カセットテープで入力させる方法が考えられました。  カンザスシティだかサッポロシティだかの方式がありました。
上に書いた当時の雑誌ですが、OSやゲームのプログラムがソノシートの形でついていましたね。
 ※OS(オペレーティング・システム)コンピューターを起動させ、人間にとって使いやすい機能を提供する基本プログラム。
アナログ音をPCに送り込んでデータ変換させるのです。 ソノシートからダイレクトでもカセットテープに録音させてからでもOK
またの名をシートROMとか呼んでいました⇒ 再生するとピ-・ギャーの連続
音はこんな感じ、こちらからどうぞ。 一般の人には雑音です、音量に注意して下さい。

この「Altair 8800」は米国の青年「ビル・ゲイツ」と「ポール・アレン」によってマイクロソフト社が設立されるきっかけになりました。
彼らはお金が無くてこのマシンを買えなかったため、学校の大型コンピュータを使ってシュミレーションして仮想空間の中にOSを立ち上げたと
言うのですから、やっぱり頭のいい奴にはかなわんな。 ⇦MicroSoft社初期ロゴ

日本では1976年NECから、CPU「8080」が基盤の上に実装された「TK-80」なるワンボード・マイコンが発売されました。
オリベッティ社の「Programma 101(P101)」が発表されてから10年もたっているのにメモリーは512Byteでした。
左側の一番大きな白いのがCPU(8080)です
上に書いたアメリカ製のコンピューターKITはCPUボードと電源でしたが、この機種はキーボードと簡単なディスプレイが付いていました。
でも電源を入れて、電卓のように使えるかと言ったら、そうでなく、カセットテープなどからOSを入れ、プログラムしないと動きません。
それでもマイコン雑誌に書かれているソース(プログラムと思ってください)を入力し、動かして喜んだものです。 【価格は給料2か月分】

CPUの技術も進み、インテルは”8080”を発売して安心したのか、開発が鈍っている間に各社から新しいCPUが出て来ました。
決定的にインテル社を苦しめたCPUが、ザイログ社の”Z80”です。
ここでまた日本人の名が・・・あの「嶋正利」氏です。 すでにインテル社を退社(追われた)して、ザイログ社に転職しているのです。
氏の他にインテルから移動した”8080”の開発スタッフが設計を行っていて”8080”より性能が高い上、プログラムもほぼ上位互換性があったのです。
(上位互換=ほぼ同じ基本ソフトがものが使える) 高性能CPUに変えても、従来のシステムがほぼ使える。
この”Z80”CPUは8ビットCPUの覇者となり、現代でも小・中規模なシステムには最適CPUとして生き残っています。

D:パソコン(この頃からマイコン⇒パソコンへと名前が変わっていきます)
こうしてCPUは進化し、そのCPUを載せるパソコンも各社各様に多様化していきます。
パソコンの要求性能もより高くなり、時代のニーズに合わせたCPUも次々と開発されます。
多様なCPUが生まれたことから、NECや富士通などの通信系の会社からいろいろなパソコンが発売されます。
パソコンは新技術を取り入れたように思われることから、会社のイメージアップを狙ってか、家電会社から名もない会社まで雨後の筍の
ように、次々と新機種が出て来ます。 ちょっとやそっとで書ききれないほどなので、社名は省略ネ。

一つには”8080″又はその互換チップを採用して作れば、マイクロソフト社の「MS-DOS」が動くようになります。
「MS-DOS」の「DOS」は(Disk Operating System)の略で、ただ単にパソコンのCPUの使用準備を整えるようにするためだけのお道具です。
(正確にはハードディスクを使ってパソコンを動かす機能をサポートする道具ですと言えばいいのかなぁ、一言では表現しにくいです)
このため「MS-DOS」は画面上にコマンドラインを表示する機能しか持たず、利用者にとっては面白味のないものでした。
 ⇦下のC:\>が出たら準備完了なんですが、さすがにこれだけではね・・
そのためBASIC言語を別売で購入し、自分で作成したBASIC言語のゲームで遊ぶ人も増えて来ました。

その後、日本ではNEC社のPC98シリーズがパソコンの世界では”一択”になっていきます。
私も入手しましてSASIハードディスクを追加で装着しました。
インターフェースは緑電子のMDC-512、ディスクはどっかから拾ってきたST-506の5インチ40MBです。
40MBです、今ではこんな容量小さすぎてUSBメモリでもSDカードでも無いですね。(笑)
プリンターも大きいのは買えないので、どっかからもらってきたN5200シリーズ用?でした。(ドットインパクト)
ただ文字コードが違うので、途中に変換プログラムを入れて印字していたのですが、何せビジネス用で音が大きすぎ、結局廃棄。
感熱プリンターに移行しました。(笑)

DOS/V時代がやって来まして・・このへんからは、ご存じの方も多いと思います。
そしてWINDOWS95がやってきます

私にとってもあまりにごちゃごちゃしすぎるので、ここらでおわりにします

インテル社は8ビットCPUから抜け、16,32,64ビットとより上位のCPUに移行していきました。
マイクロソフト社のOSは2021年にWindows11まで進化しました。

私のパソコンも現在はi9-9900Kと進化しています。
私・本体は進化せず、劣化中。

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